キス騒動から5日後――1週間振りに蓮の母親が早く帰宅したある日。
「やぁだ、ちょっと蓮?」
玄関でおばさんの声がして見に行ってみると、
「あ、蓮。また……」
そこには玄関に座ったままぐったりしている蓮がいた。
先ほど玄関のドアが開く音がしたのに、なかなか上がってこないなと思ったらコレだ。
「えー? なにこの子、寝てるの?」
蓮の前に座り、おばさんが珍しそうな顔をして蓮の顔を覗き込んだ。
「この所ずっとこんな感じですよ。蓮、寝るなー。レンレーン」
俺も一緒に蓮の前にしゃがみ、肩を揺する。
すると蓮は「んー……わかってるよ……」と力無く答え、ゆっくりと立ち上がる。
「今までこんな蓮、見たことなかったけど……知らなかっただけかしら?」
心配そうにおばさんは蓮の隣に寄り添い、鞄を持った。
「いや、今年からみたいです。今野球部、すんげー頑張ってるんで。ホラ、蓮とりあえずリビング行くぞ」
「んー」
おばさんに説明すると、俺はふらふらしている蓮の腕を担いでリビングに向かった。
キス騒動事件の翌日から、野球部の練習量は一気に増えた。
夏大会まで1週間を切って、玄関で力つきるほどのハードな練習の毎日に、さすがの蓮もくたくただった。
一応仲直りをしたとはいえ、蓮の方にはまだ多少蟠り(わだかまり)があったようだが、それも部活が忙しくなると余計な事を考える余裕がなくなり、自然と警戒は解かれていった。
あんなキスをされ、それに激怒していた蓮が俺に躯を預けほぼ毎日リビングに運ばれる。
蓮をこんなにもクタクタにしごいてくれる、鬼の梅吉とかいう野球部の監督に俺は感謝をせずにはいられない。
おかげであの件の後の方が、ずっと蓮を近くに感じられるようになった。
「ホラ蓮、先に風呂入ってこいよ。目ぇ覚めるから」
「わかってるよ。いちいちうるせぇなぁ」
ソファにどっかり座り今にも寝落ちしそうな蓮に、鞄の中から練習着を取り出しながら風呂に入るよう促すと、蓮はぶつぶつ文句を言いながら腰を上げた。
「こら蓮、何その言い方! トモ君一生懸命やってくれてるんでしょ」
「……あれ、母さん、いたんだ」
俺への物言いが気に入らなかったのか、そばにいたおばさんが蓮を叱ると、蓮は今気がついたかのように目を丸くした。
「さっきからいるでしょー? 久々にかわいい息子の顔を見に早く帰って来たのに。もう、やんなっちゃう。トモ君しか見えてないのかしらっ」
「まぁまぁ、蓮疲れてるから」
「ホラ! いつまでもトモ君に甘えてるんじゃないのっ! 早くお風呂入ってきなさい」
そう言っておばさんはバシッと蓮の尻を叩いた。
「あ、甘えてなんかねーよ! 風呂行けばいいんだろ、もうっ」
叩かれた尻を撫でながら、蓮はブツクサ言いながらようやくリビングを出ていった
「蓮、いつもあんな感じなの?ごめんなさいね。トモ君に甘えっぱなしで。蓮があんな口きくなんて、よっぽど信頼してるのねぇ。なんかトモ君って蓮のお兄ちゃんみたい。あ、お兄ちゃんっていうか、お嫁さんかしらね」
蓮が出ていった扉を眺めながら、おばさんがそう言ってクスッと笑った。
「え?」
思わずドキっとしてしまった。
「あ、じゃ俺、嫁にきましょうか」
「あらそうね。トモ君なら大歓迎〜。でもトモ君はいい子すぎて蓮にはもったいないかしら。おばさんがもっともっと若かたっら捕まえちゃうのになぁ」
「マジっすか? おばさんキレーだし、俺全然OKですよ! あ、けど、蓮のお父さんになっちゃうのはちょっと問題かなぁ」
「あら、嬉しい。でもそうねぇ。蓮のお父さんにはなりたくなわよね。残念だわぁ」
とっさにいつもの軽いノリで会話を続けたが、先ほどからおばさんの嬉しい台詞の連続に、胸がドキドキし続けていた。
俺しか見えてないとか、俺に甘えているとか、信頼しているとか――。
そんな風に思った事はなかったけれど、母親にそう見えているならそうなのかもしれない。
蓮と距離が近づいたような気がしたのは、部活が忙しくなったからだけではないのだろうか。
もしかして、蓮の意識も変わってきているのだろうか。
心を開いてくれていると、期待してもいいのだろうか?
***
その後、風呂に入って少し目が覚めた蓮と、おばさんと俺の三人で珍しく食卓を囲んだ。
「あ、そうだ。母さん、なんか傷早く治るってゆー絆創膏、あったよね?」
食事を終えると、そう言って蓮が席を立った。
「あるけど、怪我でもしたの?」
「最後のマメ潰そうと思って」
そう言って蓮は左手の掌を前に出した。
「うわ、なにその手。マメだらけ」
「すげぇなー。これが野球部の勲章か。痛そう〜」
まだ痛々しいマメの痕ばかりの掌をみて、おばさんと二人で思わず感心した。
右手も見せてもらったが、そっちの方がもっと痛々しかった。
野球部にマメは勲章だと聞いた事はあるが、本当にすごい。これを見ると、野球部の本気具合がよくわかる。
「今バックロ(※)使ってないからさ。んで狙い打ちの練習してたら、久しぶりに左にも出来ちゃってさぁ」
そう言って、蓮は水を含んで白く膨らんでいたマメをプニプニと押した。
「ちっと試合まで時間ねーし、ちゃっちゃと治しちゃおうと思って。どこ?」
「そこの引き出しの中」
まだ夕食を食べていたおばさんが持っていた箸でテレビ横の棚を指すと、蓮はそこに入っていた救急箱を取り出した。
そこから絆創膏の入ったケースを取り出すと、それを持ってソファに移動した。
安全ピンでマメに穴を開け、水を出して絆創膏を貼る――だけなのだが、何故か蓮はもたもたしていた。
そういえば蓮は結構不器用だったのを思い出した。
左手に絆創膏を貼るはずなのに、何度も右手に絆創膏をくっつけ、貼ったり剥がしたりを繰り返している。
結局1枚目の絆創膏は貼るのに失敗して小さく丸められ、眉を顰めながら2枚目を開けた。
「なぁ、俺やってやろうか?」
「いいよっ。そのくらい自分で出来るしっ」
思わず席を立ち、蓮の側に寄るが、蓮はムキになって拒否した。
「でもお前不器用なんだもん。ホラ貸せよ」
2枚目ももうよれよれ状態。
絆創膏1枚に奮闘している蓮の様子に、見ていられなくなって隣に座り手を差し出すと、
「いいってば!……(母さんいるんだから、あんまり俺に構うなっ)」
真っ赤になりながら、小声で文句を言った。
「へ?」
何それ。恥ずかしいって事? 意識しすぎじゃね? 今更。
「(何にやけてんだよっ)」
思わずにやけてしまった顔を蓮に咎められるが、そんな態度も可愛く頬が緩む。
「別にぃ。あ、やっと貼れた?」
ニヤニヤしたままそう言うと、蓮は赤い顔をしてそれでも得意げに絆創膏の貼られた左手を見せつけた。
ドヤ顔のわりに、シール部分にしわが寄っていて、すぐにでも剥がれてしまいそうな状態だった。
「よれよれじゃん」
吹き出しそうになるのを堪えてそう呟くと、
「うっせぇ! もー俺寝るっ」
面白くなさそうな顔をして、ドカドカと足音を立ててリビングを出て言ってしまった。
「あ、ちょっと! 蓮」
慌てて蓮の後を追うと、二階に上がって行こうとしていた蓮の腕を掴んだ。
「あ?何だよ」
「後でバイト代、取りに行くから」
「は?」
不機嫌そうに振り返る蓮に小声でそう耳打ちをすると、蓮の目がみるみる赤くなった。
「今日母さんいるんだぞ?」
もちろん「バイト代」とはキスの事。
あのケンカの後、ちゃんとした話し合いをしたわけではないが、俺が暴走するのを危惧してか、キスはさせてくれるようになった。
「義務的にさせている感」を全面に押し出し、蓮は頑なにそこに甘い空気を漂わせないようにしているが、それでも俺にはあの蓮が譲歩してくれたのが嬉しすぎて、文句はなかった。
義務でも仕方なしでも、蓮に触れられるだけで充分だったから。
だから、何があってもそれだけは必ず徴収する。
蓮はおばさんが家にいる事で今日の徴収を遠巻きに回避しようとしているが、俺には関係ない。
取りっぱぐれると損をするだけだ。
「部屋ですればバレねーだろ。毎日徴収するのが約束だからな。ちゃんと待ってろよ」
「ちょ……おいっ」
そう言ってにやりと笑うと、俺は蓮の反論を無視して片づけとおばさんが待つリビングに戻った。
いつもキスをさせてもらう時は「していい?」「ん」の二言ですぐに終わってしまうし、少しでも躊躇ったりタイミングがずれると蓮は機嫌を損ねて、徴収自体がお流れになってしまう時もある。
蓮の作戦なんだろうが、故にドキドキも緊張もあっという間で、余韻なんてないし甘い空気が生まれる隙がない。
だから今日のようにすると宣言して、実行までに待ち時間があるなんて初めての事だった。
今頃蓮も部屋でドキドキして俺を待っているんだろうなと想像すると、期待と興奮で胸が高まった。
今二人の間には、緊張という名の甘い空気が流れている。
なんとなく、今日はいつもと違う夜が迎えられそうな予感がし、俺は超特急で洗い物を片付けた。
※バッティンググローブの事。バッティングする時に使用する手袋。