蓮と夢のような時間を過ごした初戦から11日が経った。
あの翌日は、さすがに気まずかったのか、どことなく蓮の行動にぎこちなさはあった。
しかしなかった事にしたいらしい雰囲気を察し、俺も特に何も言わずまたいつも通りすごした。
5日後の二回戦も危なげなく勝利したが、ちょっと期待していたあの「ご褒美」的な展開はなかった。
逆にそっけない態度になっていたような気もした。
急に近づいてきたと思ったら、また元の位置まで離れる。
蓮の考えている事がさっぱり分からない。
距離感がちっとも掴めない。
一体俺はどうすればいいのだろうか。
近づいて来た時に捕らえてしまってもいいのだろうか。
もしかして蓮はそれを待っているの?
それとも、俺を試しているの?
少しずつ距離は縮まっているの?
どうすることが正解なのか分からない…。
そんなもやもやした日々を過ごして迎えた今日。
「試合、どうなってるかな」
携帯電話を開くと俺はすぐさまネットに繋いだ。
「まったく、なんだって平日に試合すんだよ」
試合の途中経過を調べながら、俺は6限目の授業・化学室に向かった。
第一シードの強豪・常陽学園との三回戦。
相手は去年の優勝校、今年も本命第一の優勝候補。
喜多川高校としては、ここが一番の山場だ。
蓮の応援に行きたい――気持ちは焦るが、今日は平日で普通に授業がある。しかも俺は喜多川の生徒ではない。
休んで応援に行くわけに行かなかった。
今日は試合開始時間が昼頃だったので、気分が悪いとかなんとか言って早退し、球場に行ってしまおうとも考えた。
しかし、やはりバレた時の事を考えると、どうしても怖くて実行出来なかった。
一日ずれていれば、土曜日だから応援に行けたのにと、思いながら渋々登校したが、試合が気になって授業どころではなかった。
昼休みが終わる頃開始された試合の速報を、5限目の授業中もこっそりチェックしていた。
――えー! ちょ、追加点取られてじゃん!
授業が終わった辺りの5回までは、常陽学園に1点を取られ0ー1だったのに、7回の今は0ー2になっている。
「おいおい、頑張れよ、喜多川っ」
携帯を見ながらブツブツ言い階段を下りた。
「あ、トモ〜」
そこに頭上から不意に声をかけられ、
「えっ?」
試合速報に気を取られていた俺は、振り向いた瞬間うっかり足を踏み外してしまった。
「う――わぁぁっ!」
「トモ!!!」
グラッと体が傾き、視界がぐるりと一周する。
――記憶はそこで途切れた。
****
「ん……ん?」
気が付いたら真っ白な天井が目に入った。どうやらベッドに寝かされているようだ。
「あれ?俺……」
記憶を辿りながら起きあがると、躯のあちこちが痛んだ。
「あ、朋、気が付いたのね。大丈夫? 頭痛くない?」
「あれ、母さん」
声のする方を振り向くと、ベッドの側には母親がいた。
久しぶりに顔を合わせた母さんは、心配というより呆れるような顔をしていた。
「もう、携帯いじりながら歩いたりするからー。連絡もらってびっくりしたわよ。念のため今日だけ入院するけど、打ち身と突き指だけですって。ホントあんたって頑丈ねぇ」
一瞬保健室かなと思ったが、独特の臭いと騒音、そして母の台詞でここが病院なのだという事がわかった。
「俺……」
ズキズキする頭をさすりながら、思い出そうとしていると
「覚えてないの? 階段から落ちたのよ、あんた」
呆れるような口調で母が教えてくれた。
「階段から……?」
思い出した。誰かに呼ばれて足を滑らせたんだ。
それから記憶がないから、きっとあの後気を失って病院に運ばれたに違いない。
「そうだ! 母さん携帯どこ!?」
ハッと思い出し、慌てて携帯を探す。
「試合は? 蓮の試合の結果どうなった!?」
サイドテーブルに置いてあった携帯を見つけると、大慌てで携帯を開いた。
「――……メール?」
待ち受け画面を見ると、メールが一通受信されていた。
ドキン、と胸が鳴った。
――もしかして、蓮から?
俺が速報を見ていた時間からもう一時間経っている。延長とかじゃなければ、もう試合は終わっているはず。
震える指で受信マークを押す――
「試合……負けちゃったって」
と、そのメールを開く前に、母さんが小さい声で言った。
「――え? ま、まさか」
慌てて受信フォルダを開く。やはり差出人は蓮だった。
10分くらい前に届いたメール。蓮からもらった初めてのメールだ。
恐る恐るメールを開くと、ただ短く「負けた。ごめん」と書いてあった。
――負けた……。
携帯を持つ手が力なく布団の上に落ちた。
「じゃー、お母さん一回家帰るわね。また夜来るから」
敗戦にショックを受けている俺に気を使ったのか、母さんはそう言うと、病室を出ていった。
――蓮……。
ぎゅっと携帯を握りしめる。
あんなに毎日くたくたになってまで練習したのに……。
玄関先やソファ、夕食を食べながら居眠りをする蓮、マメだらけの手を思い出し、胸が苦しくなった。
返信をしようにも、なんて言っていいのか思いつかない。
文字を打っては消してを繰り返す。
「あ、そうだ」
煮詰まってベッドにばふっと倒れたその時、躯に走った鈍痛に自分の今置かれている状況を思い出した。
「今日帰れないって説明しておかないと」
敗戦したその日に蓮を一人にしたくなかったけれど、こればかりは仕方ない。
意地っ張りの蓮の事だから、逆に一人になれてよかったと言うかもしれないけど、それでも今日は側にいたかった。
そう思いながらメールを打っていると、
「トモ!!」
突然仕切りカーテンが開き、息を切らした蓮が目の前に飛び込んできた。
「蓮?!」
驚いて飛び起きると、
「おま、お前階段から落ちたってっ。救急車で運ばれたってっ?! 大丈夫なのか?!」
蓮は焦って慌てて、そして今にも泣き出しそうな顔で、俺の肩を掴み顔を覗き込んだ。
「いや、あのっ」
「頭は? 怪我は?!」
頭や背中、布団の中を覗き込んだりさすったり、俺の状態を確認しようと落ち着きなく動き回る。
「ちょっと落ち着けよ、蓮。大丈夫だから、落ち着けって」
あまりの興奮具合に、蓮の腕を掴み返し必死に落ち着けと言い聞かせた。
「でもお前、意識がないって」
「脳震盪だっただけだし! 骨折も打撲もなくて、ちょっとした打ち身と、あと突き指だけだって」
それでもまだパニクっている蓮に、包帯で仰々しく処置された左手の人差し指を目の前に突き出した。
「え……突き指?」
と、そこで蓮の動きがようやく止まった。
「そう。俺頑丈だからさ。今だって俺ちゃんと意識あるし、元気だろ?」
俺を見つめるきょとんとした顔に、そう言って精一杯の笑顔を向けた。
「……なんだぁ〜。よかったぁ……」
すると一拍の間の後、状況を理解した蓮はベッドの手すりを掴んでその場にしゃがみ込んだ。
「ビビらせるなよ、お前〜」
はぁ〜と長いため息を吐くと、ホッとした表情で顔を上げた。
――あ。
その表情を見て、ドキンと胸が鳴った。
それは昔――中学三年の時――隼人が怪我をし、初めて蓮が自分の気持ちを表に出した時と同じ表情だった。
あの時俺はそんな蓮を見て、初めて隼人に嫉妬した。
俺を見てくれず、隼人だけを見ていた蓮にショックを受けた。
でもその蓮が今は俺に、俺を心配して同じ表情を見せてくれた。
――やべ……嬉しすぎて泣きそうだ。
堪えるように口をぎゅっと一文字に結んだ。
「もー、試合終わった後、母さんから留守電入ってたから何かと思って聞いたからさぁ。
なんか色々ふっ飛んじゃって、敗けたどころの騒ぎじゃなかったんだからな」
そんな俺の動揺なんて気づかない様子の蓮は、母さんが座っていたパイプイスに座り、そうぶつぶつ言い出した。
蓮は文句を言っているつもりかもしれないけれど、俺にはそうは聞こえなかった。
蓮の頭の中が俺でいっぱいだったんだと、そう聞こえる。
そうとしか聞こえない。
しかも、試合に負け今年の夏が終わった直後。
――俺は蓮にどう声をかけようかと悩んでいたのに……。
「そんなに心配してくれたんだ……ありがと」
「ち、違ぇよ! お前がいないとホラ、飯とか色々大変だからだよっ」
嬉しくて素直にそう言うと、蓮はかぁっと顔を赤らめ必死に言い訳を始めた。
そして、
「だから……色々やってくれたのに……負けちゃって……ごめん……」
試合に負けたことを申し訳なさそうに謝った。
一番蓮が悔しいはずなのに。
蓮の世話をしていたのは、俺が勝手に始めた事なのに。
――やっぱり愛しい。たまらなく今蓮を抱きしめたくなった。
「なぁ、蓮」
「なんだよ」
ついさっきまで笑顔でいたのに、照れるとすぐにぶすくれる蓮。
面倒くさい性格だなと思っていたけど、違った。
わかりやすすぎるよ、お前。
日に日に想いが募る。
一緒にいればいるほど、好きになっていく。
「好きだよ、蓮。毎日どんどん好きになる」
散々言いまくった言葉だけど、でもまだまだ言い足りない。この気持ちに上限はないのだろうか。
「お前が好きだよ」
目を丸くして固まっている蓮をまっすぐに見つめ、一言一言心を込めて言う。
「マジで。すげー大好き」
溢れる気持ちが、どんどん口に出る。
「な、なんなんだよ、いきなり……」
視線を泳がせながら、苦笑いを浮かべる蓮。必死で俺に流されないよう、堪えているのがわかった。
「打ち所悪かったら死んでたかもって思ったらさ、言える時に俺の気持ちいっぱい言っておこうって思って」
そんな蓮に、俺は精一杯優しく微笑んだ。
「お、お前が簡単に死ぬ玉かっつーの!」
徐々に赤くなっていく蓮の顔。
「なぁ、お前、まだ隼人の事好きなの? なんで隼人なの?」
「え――」
「俺の事、まだ好きにならない? 俺じゃダメ?」
「……っ」
そんな蓮に、追い打ちをかけるように立て続けに質問をぶつけた。
気持ちを知りたいと答えを促した。
すると、
「やっぱお前頭打ってるみてーだな。もう俺帰る」
ムッとしたように眉を上げ怒気を含んだ口調で、蓮はイスから立ち上がった。
「あ、待って、蓮っ」
まだ言い忘れていた事があったと、その腕を慌てて掴んで引き留めた。
「なんだよっ!」
振り向きざまにキッと睨まれるが、
「俺、頭打ってるから、一応一泊だけ入院しないとなんねーみたいなんだ。だから今日は帰れない」
「え……」
それを伝えると、睨んでいた蓮の目が、一瞬寂しそうに曇ったような気がした。
「明日の昼には帰れると思うけど……こんな時に一人にしてごめんな」
やっぱり一人になるのは寂しいんだと、思わずそう言うと、
「べ、別に一人には慣れてるし! お前が来る前はずっと一人だったつーの!」
バッと腕を振り払われ、いつもの憮然とした口調でそう言い捨てると、蓮は病室を出ていった。
「……ごめん。蓮」
一人になり、静かになった病室で小さく呟いた。
ああは言っても、試合に負けて多少なりとも凹んでいるはずなのに、そんな試合の事なんて考える暇がないくらい、蓮に悩みの種をばらまいた。
――1人でじっくり考えて欲しかった。隼人の事と――俺の事を。
今日の事で蓮が俺に心を開いているという事、そして恐らく、きっと俺の事も好きだと分かった。
完全じゃなくても好きになりかけてる。
でも現状のままじゃ、絶対蓮はそんな事認めない。
俺が何を言っても、自分の気持ちに向き合わない。向き合おうとしない。
だから、これを機に少しは考えて欲しかった。
こんなに蓮を思っている俺のこの気持ちも、ちゃんと。
布団の上に投げ出していた携帯を手に取った。
かぱっと開き、メールを打つ。
『今日は心配かけてごめん。来てくれてありがとう。お前もゆっくり休めよな。お疲れさま^_^』
そして俺も初めて蓮にメールを送った。
ほんのちょっとでもいい。
俺が蒔いた種が、芽を出してくれる事を祈って。