1年に一度の特別な日(当日編)

〜当日編〜

「監督。すみません、今日もう上がりたいのですが……」
「ん? なんだどうした? 調子でも悪いのか?」
「いえ。あの……ちょっと家の用事で……」
「そうか。調子悪いわけじゃないんだな。よかった。いいぞもう上がれ」

 蓮の早退の理由が体調不良でないことがわかると、ホッとした顔で監督はそう言い、再びグラウンドに目を向けた。

「ありがとうございます!」

 蓮は監督に一礼すると、グラウンドを後にした。

 3日後に春の地区予選が迫る4月9日。
 明日はその抽選会もある。
 春は夏予選のシード権がかかる大事な試合だ。
 チームメイトが必死で練習している中、一人だけ早く練習を切り上げなければならないのが、蓮は不本意でならなかった。
 それが、駅前で朋久用のバースデーケーキを買って帰らなければならないなんてどうしようもない理由だから余計に。
 そう、今日が朋久の誕生日。

――こんな大事な時期に誕生日なんて……ホント迷惑な奴っ。

 朝、家を出る時に蓮は母・礼子にケーキを買って帰るように頼まれた。
 それだけなら夜遅くまで営業しているケーキ屋はたくさんあるので、練習を最後までやってからでも問題はなかった。
 が、礼子は駅前の人気ケーキ屋を指定したのだ。
 しかももうすでに予約してあると。
 そこは有名なパティシエだかがプロデュースしたとかなんとかいう、最近出来た店で毎日長蛇の列が出来ていると噂の店。
 売り切れも続出で、営業時間内でも商品が無くなり次第早々に閉まってしまうらしい。
 なので受取り時間も5時までと指定があり、蓮が引き取りに行くには練習を早く切り上げないと間に合わない。
「大会が近いので休みたくない」「地元駅前のケーキ屋なのだから、ちょうど休みで家にいるなら自分で取りに行ってくれ」と蓮も反論したのだが、朋久の為に作るご馳走の準備で手一杯なんだと言われた。
 当然、本人の朋久に買ってきてもらうわけにはいかないし、「それに毎日世話になっているのは蓮でしょう」と礼子に言いくるめられ、仕方なく蓮が引き取りに行く羽目になったのだ。
 実の息子の誕生日にもろくに家にいない上、たまたま休みだったところで寿司を取る程度。
 母親の手の込んだ料理なんてここ何年食べていないというのに。

――息子よりトモかよ。どういう事だよ、まったく……。

 理不尽な扱いの差にまた腹を立てながら、蓮は完璧に教育された満面の笑みを見せる店員から大きなケーキ箱を受け取り、家路についた。


*****


「ただいまー」

 玄関を開けると、おいしそうな匂いが蓮の鼻を擽った。

「あ、この匂いもしかして?!」

 ハッとして急いでリビングに行くと、テーブルに大量の稲荷寿司が置いてあった。

「わぁ! やっぱりお稲荷さんだ!」
「え? あれ? 蓮今日早くない??」

 キッチンで料理をしている礼子を手伝いながらリビングテーブルに食器を並べていた朋久は、勢いよくドアを開けて入ってきた蓮に驚き、目を丸くして時計と蓮を交互に見た。

「お前のせいで部活早引きさせれられたんだよ。うわぁお稲荷さん、美味そう〜〜!!」

 蓮はケーキの箱をカウンターに置くと、目を輝かせながらテーブルの上のお稲荷さんを見つめた。

「ねー母さん、一個食べていい?」
「ダメよ! ホラ、その前に早くカバン置いて着替えてきなさい」

 そわそわしながら、稲荷寿司の山に手を伸ばそうとすると、キッチンで揚げ物をしている礼子に一喝された。

「ちぇっ」
「蓮ってそんなに稲荷寿司好きだったっけ?」

 礼子にたしなめられ唇を尖らせて部屋に行こうとカバンを手に取ると、朋久が不思議そうに呟いた。
 好物が食卓に上がれば機嫌は良くなるが、こんなにハイテンションになることはないからかもしれない。
 でも、この稲荷寿司は別だ。
 幼い頃から母の作る稲荷寿司は格別に美味しく、蓮の大好物なのだ。

「母さんの稲荷寿司が好きなの」

 米に混ぜる合わせ酢も独自配合な上、あげを煮る所から始まるので絶対に他で食べる事が出来ない母の味。

「そうだったんだー。手が込んでて美味しそうだもんな」
「マジで美味いよ。それに久しぶりなんだ。母さんのお稲荷さん食べるの」
「へぇ〜、そうなんだ」

 この稲荷寿司が、父方の祖母から教わったものだからなのかもしれないが、蓮達がこの町に越してきてから礼子は稲荷寿司を作ったことがほとんどなかった。
 高校入学祝いにと作ってくれた一度きりで、それ以前も以降も食卓にあがった事はない。
 中学卒業まで年に一回、父の家に泊まりに行くことがあり、そこで祖母作の稲荷寿司は食べていたがやはり母・礼子の味とは違う。
 蓮は礼子の味の方が好きだった。
 蓮にとっては祖母の味というより母の味。
 しかしさっぱり稲荷寿司を作らなくなったので何かきっと事情があるんだろうと察し、中学に入ると蓮は部活で、礼子は仕事で忙しくなったのをきっかけに、
稲荷寿司の事は忘れていた。
 それなのに、今日その思い出の稲荷寿司を作ってくれた。
 別に特別にお願いしたわけでもないのに。
 それはようやく礼子が抱えていた「何か」を吹っ切ったという事なのか、単にお気に入りの朋久に得意料理を披露したかっただけなのか。
 どちらにしろ、朋久の存在がきっかけだ。
 帰ってくるといつも疲れきった顔をしながら家事をしていた礼子も、家事に対する負担が減ったおかげで笑顔が多くなった。
 朋久が早瀬家に居候してから、確実に家の中が明るくなった。
 朋久を見つめながらそんな事を考えていると、そんな朋久の下に「なぁーご」と独特な鳴き声でイチローが擦り寄ってきた。

「なんだよイチロー。あ、飯か」

 イチローの催促に、朋久は猫缶を取りに行こうと席をたった。
 甘えてくるのは蓮にだけれど、イチローもすっかり朋久を認めている。今ではお腹が空いたら、イチローはまず朋久の下に行く。

「……お前って凄いな」

 蓮だけでなく礼子やイチローまで――もはや早瀬家にとって、朋久が家族同然の大事な存在になっていることに蓮は改めて気がついた。

「え? 何の事?」

 イチローの食器に猫缶の中身を入れながら振り返った朋久を見て、蓮は小さい溜め息を一つ吐くと、カバンのポケットから掌サイズの小さな紙袋を取り出した。

「これやる」

 そしてつかつかと朋久の前に歩み寄ると、それを朋久に突きつけた。

「え?! え、何?! もしかしてプレゼント!!??」

 驚いた朋久は、猫缶を持ったまま立ち上がった。

「色々……世話になってるから」
「マジで?! ありがとう!!!」

 感激した朋久は、まだ中身が入っていた猫缶を床に放り投げ、蓮が差し出した紙袋を勢いよく手にした。

「おい! お前缶詰投げんなよ!」
「わぁ、かっけぇ。ありがとう蓮! すっげぇ大事にする!!」

 慌てて缶詰を拾い、床に散らばった中身をティッシュで拾い拭いている蓮など全く気にせず、朋久は袋から出てきたブレスレットを見てぱぁっと笑顔になった。

「お、おう」

 朋久がプレゼントを受取ったらすぐ部屋に引っ込んでしまえばいいと、渡すならこのタイミングだと思ったのだが、思いもよらず猫缶を床にぶちまけたりしたせいで、朋久が袋を開け大喜びしているのを目の前で見てしまった。
 途端に照れ臭くなる。
 熱くなる顔を見られたくなくて、蓮は慌てて下を向き床を拭き続けた。
 ケーキを買いに行く途中で、ふと目に止まった小さな雑貨店。
 ピアスやブレスレットなど自分が身に着けているアクセサリーはここで買っているモノが多いと、いつか朋久が言っていたのをふと思い出した。
 朋久へのプレゼントを用意していなかったし、いつもの時間はもう閉まっている店がちょうど開いていたので寄ってみたのだ。
 自分の世話をしているのは朋久が勝手に始めたことだが、まぁ感謝はしているし、それに一応恋人だ。
 照れ臭いけれど、プレゼント無しというわけにはいかないだろうと、朋久が好きそうなものを探して店内を歩いた。

「ね、似合う?? まさか蓮がアクセくれると思わなかったよ。でもお前ってホント、センスいいよねー。これすげぇカッコイイ」

 早速朋久はブレスレットを手首に着け、床を拭いている蓮の前にしゃがみこむとその手首を見せた。

「それなら……そんな目立たねーし……それくらいしか思いつかなかったから」

 本当に心底嬉しそうなその笑みにつられて、思わず蓮もそういうと笑みを零した。
 アクセサリーの類に興味がなく自分でも使わない蓮にとっては、店にある商品はどれも軟派な感じがして好きじゃなかった。
 その中で、唯一蓮の目に留まったのが朋久の手にしているブレスレットだった。
 黒いレザーの組み紐タイプなので、時計と一緒につけてもそれほど目立ちすぎない。
 2箇所に小さなシルバーリングのアクセントがあるので落ち着きすぎなく、これなら朋久も気に入ってくれるだろうと思った。

「気に入ってくれたならよかった」
「……ね、蓮。見て見てっ」
「もー何だよ」

 床を拭きながら素直にそう呟いた後、弾んだ声で朋久に呼ばれ顔を上げると、その瞬間朋久にチュッと軽くキスをされた。

「お前……っ!」

 慌てて顔を引き口元を押さえると、蓮はとっさに顔を上げた。

「(大丈夫。見えてないって)」

 蓮の気持ちを読んだ朋久は、「シッ」と人差し指を唇に当てるとにやけた顔と小声でそう言った。
 キッチンには礼子がいる。
 幸い死角のようでしゃがんでいる二人から礼子の姿は見えないが、そういう問題ではない。

「(お、お前なぁっ)」
「(だって普そんな可愛い事言われたらさー)」

 しかし、声を抑えながら抗議するが朋久は悪びれる様子もなく、ヘラヘラ笑うだけ。
 それどころか、

「(なぁ、今日本当にダメ?……誕生日って事でさー、絶対バレないようにするからさ。お願い!)」

 と、両手を合わせて懇願して来る始末。
 朋久の願いと言うのは、今夜の事。
 今日は礼子がいるので、当然Hなど出来るわけがない。

「だ……っダメに決まってるだろ!! このバカっ!」

 土下座してくる勢いの朋久の頭を思いっきり殴ると、蓮はスッと立ち上がり、

「着替えてくる!! 後はお前自分で拭けよ!」

 そう言ってカバンを持つと早足で逃げるように二階に上がっていった。
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