それから数ヶ月後の十二月頭、修二は予定通り野崎高校へ推薦入学の願書を提出した。
 しかし一方で圭吾はいつも書類を忘れ、いつ聞いても「まだ……」と答えるだけで、提出した様子はなかった。
 圭吾は宿題や提出物を忘れる癖があるので、修二もさほど気にしていなかった。

「圭、願書書いて来たか? 提出明日までだぞ」

 しかし、提出の〆切日を明日に控えた今日、さすがに忘れたらシャレにならないと冗談めかして確認すると、 

「……修ちゃんごめん、やっぱり俺、推薦受けない」

 突然予想外な言葉が返って来て、一瞬ポカンとしてしまった。

「――は?! なんで?! 一般で受ける気?!」

 ハッとして問いつめると、圭吾は静かに首を振った。

「ううん。俺……喜多川行こうと思ってて」
「喜多川ぁ?!」
「うん。喜多川行って、あの人と野球したいんだ」
「あの人? あの人って誰?」
「喜多川のピッチャー。あの佐和って言うシンカー投げる……」

 思い出した。
 夏に野崎高校の試合を見に行った時、そう言えば圭吾はずっと相手投手に固執していた。
 去年、シニアの大会で対戦し、ノーヒットノーランをやられたあの背の小さい、ずっと圭吾が探していた投手。

「あのシンカー使い?! え、なんで? だからってなんでお前が喜多川に行くとか、いきなりそういう話になるんだよ」

 あの試合中、志望校の野崎ではなく圭吾がずっと対戦校の喜多川を見ていたことには気づいていた。
 でもそれは、そこに圭吾がずっと探していた投手がいたからで、まさかそれがこんな話《こと》になるなんて思っていなかった。 

「試合見たろ? あのピッチャーいたってキャッチもバッティングも全然ダメじゃん」

 確かにあの投手はすごい。でも、試合を見た限り、捕手はあの投手を活かしきれていない。捕球もリードもイマイチだと、中学生の修二でさえ思ってしまうレベルだった。
 それに投手を助けてくれる主力バッターもいない。強豪校と呼ばれる野崎高校を蹴ってまで行く魅力のある高校には思えなかった。
 そんなこと圭吾だってわかるはずなのに。

「うん。だから、俺があの人の球捕れるようになればいいなって思って」

 しかし、圭吾は訳の分からないことを言い続けた。

「え……何言ってんのかわかんねーんだけど」
「だから、俺、喜多川行ってキャッチャーやりたいんだ。あの人の本気の球もう一度見てみたい」
「はぁぁ?! ピッチャーやめるってこと?!」
「うん。……なんかよくわかんないけど、あの人に惹かれるんだ。でもピッチャーとしては、到底かなわないってゆーのがわかるからかな。よくわかんないんだけど、本気の球が投げれらない状態なら、俺が投げさせたいって思ったんだ。だからごめん、俺、喜多川受ける事に決めたんだ。野崎には行かない」

 目眩がした。
――ピッチャー辞める? キャッチャーになる? 
 圭吾の言っている意味が分からない。理解できない。
 圭吾が日本語をしゃべっているのかさえ、わからなくなる。
 ずっとやっていたピッチャーをやめてまで、未経験のキャッチャーに転向してまで、あの投手にどうしてそこまで拘るのか。

「でも……だって、一緒に甲子園目指そうって言ったじゃん。うんってお前も言ったじゃんか」

 気がつくと半分涙声で圭吾を責めていた。
 一緒に試合を見に行った。入試説明会に出向いたりもした。学力試験も頑張んないとなーと言い合った。

――なのに、なんでこんな事に……。
「ゴメンね……修ちゃんは野崎に決めてるんだよね……? 喜多川には行かないよね」
「当たり前じゃん! 願書だって出したし! ちょっとは喜多川も考えたけど、でも相談して野崎って決めたんじゃん!」

 修二も圭吾も喜多川高校は地元で、一番近い。
 活躍している喜多川の試合をテレビで見ていた時は、見ているうちに心が踊り、喜多川に進学しようかとも考えた。
 しかしその後の成績不振を知ると、やはり私立の方が甲子園には近いと判断し、推薦を受けられそうな私立野崎高校の推薦を受ける事にした。
 人気高校だが、シニアチームで県大会ベスト4まで進んだ成績を考えれば合格も難しくないと「二人で」相談して。

「お、落ちたらどうすんだよ。野崎なんて滑り止めにはならねーぞ!」

 野崎高校はスポーツに力を入れている学校だが、普通学科では学力が高い進学校だ。スポーツ推薦ならば、学力審査が甘くなるので、圭吾や修二の中間レベルの学力でもなんとかなる。しかし、一般で受けるとなったら進学特待クラスしかない。
 故に、圭吾の学力レベルでは一般合格は難しく、後から行きたいと思っても、簡単に行く事の出来る高校では決してない。
 逆に公立高校を一般で受ける方が、リスクが高い。喜多川高校のレベルはそれほど高くないが、それでも今の圭吾の学力ではギリギリのライン。
 それなのに。

「絶対落ちねーよ! 落ちるとか言うな!」

 しかし、修二の言葉に圭吾が突然声を荒げた。

「で、でも、あのキャッチャー見たろ?! あの人だって三年だぞ? キャッチャーなんてそう簡単に出来るもんじゃねーんだぞ?! やめとけよ。一緒に野崎行こうぜ? まだ明日あるから考え直せ。あそこは固定バッテリーっぽいし、俺らならきっとレギュラー取れるって! んで一緒に甲子園――」
「ごめん。もう決めたんだ」

 それからはもう修二の必死の説得にも、圭吾は耳を傾けず、頑なに「ごめん」「もう決めた」を繰り返すばかりだった。
 キャッチャーはキャッチングのみならず、ゲームを客観的に見る目も必要。とっさに状況を判断する冷静さも必要だ。
 リトルの頃から捕手をやっている修二だって、まだまだレベルは低い。
 簡単に出来るものじゃない。
 それなのに、圭吾は自分とバッテリーを組んで甲子園を目指すことより、別々の道でさらも捕手になる方を選んだ。

「約束したのに。高校でも一緒に野球やろうって……バッテリー組もうなって約束したのに……」

 野崎高校は昔から固定バッテリー制が特徴で、二人で受ければまた三年間一緒にプレー出来る。
 だからこそ野崎高校を選んだ。圭吾とバッテリーを組んでいたかったから。
 一緒に甲子園を目指そうって約束したから。
 それなのに。

「ごめん……」
「なんで今になって言うんだよ。前から決めてたんだろ?」
「うん。ずっと……言えなくて……」

 高校に入学した後の学校生活に思いを馳せて、二人で話していたのはなんだったのだろうか。
 寮生活ってどんな感じだろうとか、彼女出来るかなとか、野球部の練習って厳しいんだろうなとか――。
 その間ずっと、圭吾は通う気がないのに話を合わせていたんだと思うと腹が立った。
 一人で浮かれていた自分もかっこ悪くて、悔しい。
 自分よりも、たかが一度対戦しただけの佐和を取った圭吾に、ムカついて腹が立ってしかたがなかった。泣きたくもなった。殴りたいとまで思ったのは、生まれて初めてだ。。

「こんなバカにされたの初めてだよ。俺、絶対お前を許さないから――裏切り者」

 でも、なんとかギリギリのところで怒りを抑え、修二は圭吾を睨みつけると、駆け足で学校に向かった。

「修ちゃんっ!」

 背後で圭吾の声が聞こえたが、修二を追いかけてくることはなかった。
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