あと数秒遅かったら完全に落ちていた。
「ヤマト、おいヤマト起きろ。風呂行くぞ」
眠気がピークに来たところで、良介が修二を揺すり起こした。
「ヤマト、ヤマトってば」
「ん……今行くよ……」
眠ろうとする脳と重い体に必死に対抗し、修二は無理矢理起き上がった。
「ちょっと、タオル! あと着替え!」
ふらふらする足取りで部屋を出ようとする修二を呼び止めると、良介は勝手に修二のクローゼットを開けタオルと替えの下着を取り出し修二に渡した。
「あー悪い、サンキュ」
「ヤマト頑張りすぎじゃね? 今からそんなだともたないよ?」
疲労困憊の修二の様子に良介が心配そうに眉をしかめる。
「んー、でもトレーナーさんにちゃんと相談してるし」
野崎高校での新生活が始まって一ヶ月。
朝は誰よりも早くグラウンドに向かい、ランニングを黙々とこなし、夜は夕食までの空き時間を使って先輩に混じりながらトレーニング室でひたすら筋力トレーニング。
野球部専属のトレーナーにも相談しながら、修二はここ二週間、出来る限りのトレーニングをしていた。
慣れない寮生活とハードトレーニングで、部屋に帰ると修二はいつもベッドに倒れ込んでいた。
「でもさぁ」
「お前と組むにはまだレベル足りねーから」
心配そうな顔をする良介に、修二はそう言って苦笑いを浮かべた。
日本一を取ったという良介の球は予想以上に凄かった。
良介の球は速い上に、ずっしりととても重い――圭吾とは正反対の投手だった。
ストレート三球と縦と横のスライダーを一球ずつ――たった五球だったが、それだけで良介の凄さは十分にわかった。
キャッチボールをする前、良介に「防具をちゃんと付けた方がいい」と言われた時は、自分の捕球技術を甘く見られた気がして腹を立てたが、今なら納得できる。
捕球する振動で腕が痛み、ミットの中の手は腫れて痺れ、その後の夕食では箸すら持てなくなったほど。
防具無しで、あの球を体に当てたら確実に怪我をしていた。
自分の未熟さと良介のレベルの違いにかなりショックを受けていた修二だったが、良介が「まだ本気で投げていないぞ」と笑った瞬間、修二は悔しさにカッとなった。
「もう十分だろ」と言う良介に、修二は最後に一球だけ全力投球するよう懇願した。
手はすでに感覚を失いかけていたが、どうしても見たかった。受けてみたかった。
しかし、ゴーッと音を立てて迫ってくる球に、修二は感じたことがない恐怖に襲われた。
あまりの恐怖に修二は、思わず目を閉じてしまった。
キャッチャーにあるまじき失態。そんな失態を犯すほど怖かった。
捕球出来たのは奇跡だと思う。
気が付いたときには球がミットの中に入っていただけ。
そして捕球した左手だけではなく、全身が震えていた。
――すごい、こいつ凄い……。
実力の差に呆然としてながらも、こいつといれば、甲子園も夢じゃない、圭吾に勝てる
――と思った。
「俺と組みたくなった?」
そう得意気に笑う良介に、修二はこれからの三年間を良介宍戸に託す事を決めた。
しかし同時に自分の力不足を痛感した修二は、良介に見合う捕手になるため、自主トレーニングの量を増やしたのだ。
「やっぱヤマトってマジメ。でもさー俺、お前以外と組む気ねーし、そんな焦んなくてもいーじゃん」
フラフラになって疲れきっている修二を見ながら、良介が言う。
どういう訳かあれほど実力のあるのに、良介は他の有能な捕手よりも修二を気に入ってくれている。
それはとてもありがたい。
けれど。
「そういう訳にはいかねーだろ。」
バッテリーは基本的に固定なのが野崎高校野球部の特徴だが、だからと言ってもちろん好きな相手と好きに組めるわけではない。
希望は聞いてもらえるが、お互いの実力が見合ってなければ、組ませてもらえない。
強豪校の野球部なので、修二よりも技術のある選手はたくさんいる。
そんな中で即レギュラーも夢ではない良介と組む為には、修二は同学年で一番の捕手になるくらいにまでレベルを上げないとならない。
今のままでは、修二が良介と組める可能性はかなり低い。
一日でも早く、レベルを上げ正式にバッテリーと認めてもらわなければと、修二は焦っていた。
――圭吾よりも早く一軍に入りたい。
その一心で必死にトレーニングしてきた。
あのヘタレな圭吾がそんなに早く捕手になれるなんて、ましてやあんな面倒くさい球を投げる投手の相手なんて、出来るわけないと思うけれど、選手の層が薄い喜多川高校ならば、万が一もありうる。
だからとりあえず早く背番号が欲しかった。
「何でそんな焦ってんのかわかんないけどさ。怪我したら元も子もなくなるよ。ヤマト、ふらついてよく転びそうになってんじゃん。風呂でも寝ちゃうし」
「う……」
しかし、呆れるように良介にそう言われ、修二は言葉に詰まってしまった。
ここ最近、疲れきって足がもつれる事が増えた。入浴中もうっかり寝てしまった事もある。
いずれの時も良介に助けられた。
「俺がヤマトの世話してどうすんだよー。普通逆じゃね? 俺と組みたいって思って頑張ってくれるんだろうからそれはそれでチョー嬉しいけどさぁ〜」
それを言われると返す言葉もない。
まだまだ実力の差は埋まってないけれど、無理をして怪我をしたらその時間が無駄になるのは確かで。
その間に圭吾に先を越されても悔しすぎる。
「俺的にはもう少しさぁ、一緒にいる時間の方が欲しいんだよね。ヤマトの事だって色々知りたいのにさー、会話が『起きろ』『風呂』『メシ』くらいなんて寂しいじゃん。せっかく同室なのに」
「あー……そういえばそうかも……」
良介に愚痴られて気がついた。
そう言えばトレーニングに明け暮れて、部屋ではいつもぐったりしているせいで、良介と必要以上の会話を交わしていなかった。
学校ではクラスが違うので、ほとんどしゃべる機会もない。
同室なのに、バッテリーを組もうとしているのに良介の事はまだ何も知らない。
「そうだな。わかったよ……少しセーブするよ」
このままではまずいと気がついた修二は、良介の言葉でようやく自分を見つめ直すことが出来た。
「そうだよ、トレーニングよりも俺に興味持ってよね」
修二の答えに満足した良介は、拗ねるように頬を膨らませてそう言った後、笑った。
「あはは、悪い悪い」
あんなに重く速い球を投げるようには全く見えない、爽やかな笑顔に、修二もつられて笑った。