室内練習ばかりを強いられてきた梅雨がようやく明け、夏を感じられる日差しが多くなってきたある日――
「うーっす」
良介と修二が部室に入ると、その中央で1年のチームメイトが、一人を取り囲んで、騒いでいた。
「何やってんの?」
カバンをロッカーにしまいながら、修二が覗き込もうとすると、
「おう。お前も見るだろ?」
その中心にいた部員が笑顔で顔を上げ、手に持った紙をヒラヒラさせて見せた。
「何?」
「対戦相手決まったぞ」
「あ、そっか。今日抽選日だっけ」
今日は夏予選の抽選日。高校球児の夏が本格的に始まりを告げる日だ。
ほとんどの一年生はベンチに入ることも叶わなかった。
しかし、それでも初めて迎える夏を前にやはり気分が高まる。
「うちどこと?」
唯一ベンチ入りを果たした良介も輪の中に入ってく。
「磯工と湖南の勝った方だよ。おそらく湖南だろうけど」
「へ〜このブロックなら決勝まで無難に行けそうじゃん」
「だよな! 逆に常陽、ここ結構厳しそうな学校ばっかなんだよ。ラッキーだね」
「宍戸、登板のチャンスあるんじゃね?」
チームメイトが騒いでいる中に、修二もゆっくりと入って行き、手書きで書かれたトーナメント表を凝視した。
――トーナメント……。
練習に夢中で今まで思い出すこともなかった。
ずっと忘れていたのに、夏の予選組み合わせが決まったと聞いた瞬間、また圭吾のあの笑顔を思い出した。
腹が立つくらいにこやかな、あの顔を思い浮かべながら、修二は上から順に目を滑らせる。
――……Dブロックか。ってことは喜多川とは準決勝まで当たらないな。
修二の高校――野崎高校は第二シードでCブロック。
トーナメントはA〜Dまで大きく分けて四ブロックに分かれている。圭吾のいる喜多川高校と対戦するには、互いにそのブロックで一番になり、準決勝まで勝ち進めなければならない。
幸い野崎高校のブロックに手強そうな学校はない。
手強そうだと警戒していた学校はほとんどAとBに入っている為、喜多川高校のいるDブロックも、そこそこの学校ばかり。
戦いやすいブロックだと言える。
しかし去年の夏や今年の春の成績を考えると、喜多川が準決勝まで勝ち進める確率は低いだろう。
今の喜多川高校がどれ程のレベルなのかは知らない。けれど順当に勝ち進んでも三回戦で第三シードに当たるというのは、どう考えても厳しいし、くじ運が悪すぎる。
――ホント、いいとこなんて何一つないじゃん……。
「ヤマト?」
チームメイトの雑談に入らず、じっとトーナメント表を見つめていると、その修二の様子に気づいた良介が伺うように声をかけた。
「どうかした? 怖い顔してるよ」
普段もあまり積極的に賑やかな会話に入って行く方ではないが、圭吾のことを思い出して思わず険しい表情を浮かべていた
修二に、良介が心配そうな顔をした。
「え、あ、ちょっと光が反射してトーナメントが見づらかっただけだよ。他のブロックも一通り見てて」
慌てて目をこすりながら笑顔で取り繕うが、
「あ、そっか。カッシーが気になるんでしょ。喜多川だっけ?」
同じシニアチーム出身の福原が思いがけずそう答え、修二の笑顔が固まった。
「喜多川は……Dか。準決勝まで当たらないなー。やっぱ戦いたくない?」
「……んなわけねーだろ。気にしてねーよ」
余計なこと言うなよ、と心の中で舌打ちをしながら答える。
「カッシーって誰?」
案の定、良介が興味深々で修二に聞いてきた。
「……ただのチームメイトだよ」
「んな事言ってぇ。カッシーはね、大和の元相方なんだよ」
適当に答える修二に代わって、福原が得意げに答えた。
再び、舌打ちをする。
「へぇ、ヤマトと組んでたんだ。どんなピッチャーだったの?」
「んーまぁ器用だから結構球種は投げられたし、いいピッチャーだったけど、面白いくらい気ぃ弱くてさー」
「そうそう。大和がしょっちゅうマウンド行ってたの思い出すわ〜」
福原を含むその場にいたシニアでのチームメイトが、圭吾とのやりとりを口々に語りだした。
「へぇ〜」
良介は興味があるのか面白そうに聞いているのが、修二は内心穏やかではなかった。
そんな話を聞くと、否応なしに蘇ってしまう。
マウンドに立っている圭吾の姿を。
ピンチになる度眉が下がって視線が揺れ、自分に助けを求める圭吾の目。
――修ちゃん、どうしよう。どうしよう。何投げても怖いよ。助けて。
視線でそう訴えられる度、修二はマウンドに向かった。
何度も言葉をかけ励まし、不安を飛ばして投げさせた。
ピンチを抑えられた瞬間の、あのホッとして思わず漏らす圭吾の笑顔。
あの笑顔が見たくて――……。
なのに。
「でもさ、なんでそのカッシー≠セけ喜多川行ったの?」
良介がその疑問を口にした途端、修二の中の圭吾は色褪せ、現実に引き戻された。
代わりに思い出したくない圭吾の声が脳裏を過ぎった。
――俺、喜多川受けることに決めたんだ。野崎には行かない。
心拍数があがっていくのがわかった。
苦しい。心が痛い。
「俺も知らねーんだ。てっきり俺らと一緒にここくると思ってたもん。な、大和聞いてる?」
「えっ?」
突然話を降られて心臓が跳ね上がった。
「し、知らねーよ……家が近いからじゃね」
ドクドクとものすごい早さで脈打つ心臓。息苦しさを必死で抑えて適当に答えた。
今更こんなにも圭吾のことで心を乱されるなんて思いもしなかった。
圭吾はわりと誰とも仲良くやっていたから、喜多川を選んだ理由を皆も知っているのだと思っていた。
だから今まで圭吾がここにいない理由を、誰も聞いてこないのだと思っていた。
しかし、圭吾は修二以外他の誰にもその理由を言わず、一人で喜多川に進学した。
――どうして俺だけに……
「そっかー。私立イヤだったのかなー。それかうちより喜多川の方がレギュラー取り難しくねーからとか」
「あーあり得るな。俺も悩んだもん」
圭吾が投手を辞め、捕手に転向したことを知らないチームメイト達は暢気な事を言っている。
投手としてなら、そこそこの球種を投げられるしコントロールもいいので確かに早々にベンチ入りも考えれる。けれど圭吾は今投手でなく捕手になろうとしている。
――あの性格で捕手なんてポジション、絶対無理なのに。
今度は修二から圭吾を奪ったあの投手の姿を思い出した。
野崎高校に進学するつもりで観に行った練習試合。
あの試合を観に行かなければ、対戦相手が喜多川高校じゃなかったら、今も圭吾はまだ自分の隣にいた。
「あ、大和離れしたかったとか。あいつ大和いないとダメダメだったし」
「っ!」
福原が言った台詞に、修二は反射的に顔を上げた。
「あ、いや変な意味じゃねーよ? えっと一人立ち? 親離れ?そんな意味で――」
その反応に福原がハッとした表情を浮かべ、慌てて自分の発言をフォローする。
「あっ、あとほらっ、前に甲子園行ったし。それもあるんじゃん?」
嫌な空気を感じ取ったのか、他のメンバーも焦って話を変えようとした。
「でもあれは奇跡でしょー。その後ボロボロだぜ?」
「あーそーだよな。俺の先輩でも喜多川行った人いたけどさー全然勝ってねーもん」
その結果、話題はいつの間にか圭吾から喜多川高校の話に流れていった。
修二はそのままそっと話の輪から離れ、自分のロッカーの前に立った。
――俺から離れたかった――?
ゆっくりと着替えを始めながら、修二の心には福原の何気ない一言がずっと引っかかっていた。
そんな事考えたこともなかった。
小さい頃からずっと一緒で、自分にべったりだった圭吾が、自分の元を離れたいと思っていたなんて。
――ずっと思っていたとしたら……そこにあのピッチャーが現れたとしたら……
頭が混乱していく。
――裏切られただけでなく……俺……
再びドクドクと心臓が強く脈を打ち始める。
――圭に……捨てられた……?
圭吾が誰にも本当のことを言わず、一人で喜多川に行った事が、どうしても引っかかっていた。
隠すことではないし、野球をやっていればどこかで会う事もある。すぐにばれてしまうのに。
――もしかして俺同情された? あの圭に?
一緒に野球をしたいと思う人がいる――それ以上の理由があったとしたら、圭吾の事だから修二と別の道に進む理由を誰にも聞かれたくないと考えるかもしれない。
「ヤマト、どうした? 大丈夫? 顔色悪いけど」
手を止めて立ち尽くしていた修二の異変に気付いた良介が、話の輪を抜け側に寄ってきた。
「あ、いや大丈夫だよ。ちょっと暑いなって思っただけ」
良介に悟られないよう笑顔を取り繕いながら、練習着に袖を通したが、そのボタンを留める指が震えた。
「……」
微かに震える手をじっと見つめ深呼吸を一つ吐くと、修二はその手をグッと強く握った。
――ふざけんな……。
「――良介」
隣で一緒に着替えていた良介を呼ぶ。
「ん、何?」
「俺絶対、お前と組むから。この夏は難しくても。一日でも早く」
体中の血がゆっくりと静かに熱くなっていくのを感じた。
圭吾にだけは負けない。負けたくない。
「そして甲子園に行く。絶対に」
「え? あ……うん。もちろん。頼むよ」
忙しさにかまけて、忘れてかけていた気持ちを思い出した。
――ぜってぇに負けねぇ!! 見返してやる!!
「先に行ってる」
「あ、ヤマト待ってよ!」
修二は急いで着替えると、まだトーナメント表を囲って談笑しているチームメイトを横目に部室を出た。
「ちょっとヤマト! なに急に。どうかした?」
数分後、良介も慌てて着替えたのか、ベルトを締めながら倉庫に入ってきた。
「別にどうもしないけど」
修二はそう言って黙々と練習で使う道具を外に運び出す。
「なんで一人でやろうとしてんの? みんな来てから」
「早く練習したいだけだよ」
「なんか機嫌悪くない? もしかしてさ……カッシーって奴のこと? ヤマトとなんかあるの? あ、喧嘩してるとか」
「っ!」
良介の口から圭吾の名前が出てきた一瞬、思わず修二の手が止まった。
「……そんなんじゃないよ。トーナメント表見たらなんかやる気になった……それだけだよ」
そう言って顔を上げると、取り繕うように無理矢理笑みを浮かべた。
「ふぅん……。そう?」
修二の言い訳に良介は首を傾げ一瞬唇を尖らせたが、
「あ、それ俺持ってくよ」
すぐに柔らかな表情に変わり、修二が持っていたマスコットバットの入ったケースを奪った。
「おう、サンキュ」
この日以降、良介は圭吾の話をすることはなかった。
その半月後――県大会予選の開会式で修二は圭吾と再会した。