それから一ヶ月――夕食の片づけを終えると修二は食堂の壁に貼ってある大きなトーナメント表の前に立ち、それをじっと見つめた。
勝ち進んでいる高校からそれぞれ赤い線が引かれている。
野崎高校も中央の決勝目指して順調に赤い線が伸びていた。
明日は準決勝。
すぐそこまであこがれの甲子園が近づいている。
しかし修二の心は沈んでいた。
自分がベンチメンバーに入っていないせいだけではない。
野崎高校の下のブロックに目を移す。
準決勝で対戦するはずだった喜多川高校の赤い線は、三回戦で途切れていた。
何度見ても、それはもう伸びない。
喜多川が負けて、野崎が勝ち進んで――この展開を望んでいた。
なのに、喜多川の敗北に修二はかなりショックを受けた。
そして喜多川が負けたと知った時から、心の片隅に空しさが生まれた。
「明日の対戦相手は喜多川じゃないよ」
突然背後から声をかけられ、ハッとした修二が振り返ると、呆れた表情の良介が立っていた。
「もうとっくの昔に負けてるじゃん」
「別に喜多川見てたわけじゃ……」
「嘘だ。ヤマト毎日この辺、じーーーっと見てるもん」
良介は喜多川のいるブロックを指して宙に丸を描いた。
「っ……」
図星をさされたせいか、いつもの「違う」という言葉が出なかった。
「でもさー、ヤマトベンチ入ってないし、今戦っても意味ない
じゃん」
「それは……そうだけど」
良介の言うとおりだった。
各校のメンバー表が載った大会冊子を確認したが、喜多川高校のベンチメンバーに圭吾は入っていなかった。
自分たちがいない場所で対戦しても、何の意味もない。
それでも勝負したかった。
喜多川高校のレベルを知りたかったし、圭吾がどんな様子でいるかも知りたかった。
自分の側を離れ、慣れない捕手への転向に苦労し絶対後悔していると思いたかったのに、開会式で見かけた圭吾は笑っていた。
先輩エースを前に笑顔を見せる圭吾が信じられなかった。
もしかしたら捕手になるのを諦めたのかもしれないとも考えた。だからそれを会って確かめたかった。
今更こちらから会いに行ったり、連絡を取る勇気はないけれど、偶然会えたらその時は話が出来るかもしれないと。
「ねぇ……俺、今イヤミ言ったんだけど」
そんなことを考えていると、良介がため息混じりに呟いた。
「え?」
「ヤマトって時々自分の世界に入るよね。ねぇ、俺の話ちゃんと聞いてる? 俺のこと見てる?」
そう言って良介は修二を睨んだ。
初めて見る、本気で怒っているんだとわかる表情に、修二は思わずドキッとした。
「見てる……よ」
「嘘だ。ヤマトは俺の気持ち全っ然わかってない。俺はヤマトに投げたいんだよ。ヤマトと一緒に野球がしたいんだよ。ヤマトがキャッチャーじゃないって思う度、本気で試合バックれようかって毎回思ってるんだよ? それくらいヤマトと野球したいんだよ、俺」
口ごもる修二に対し思いを口にする良介のその声は、怒りと同時に寂しさも混じっているように感じた。
「……良介……」
良介が自分を好いてくれているのはわかっていたけれど、捕手としてそこまで求めてくれていた事に、修二は胸を衝かれた。
良介は控え投手として、一年で唯一見事ベンチ入りを果たした。
しかし、修二は良介の女房役として認めてもらえず、その相手は三年の正捕手が務めた。
悔しかったけれど、仕方がない事だと諦めていた。
「ヤマトに嫌われたくないから試合には出るし、ちゃんと投げるけどさ。本当はイヤなんだからな。ヤマト以外に投げるの」
しかし良介は諦めていなかった。
その良介は今日まで何度かマウンドに登った。
先発する事もあったし、重要な場面でリリーフを任される時もある。すでに良介はチームになくてはならない投手になっていた。
どんなピンチで追い込まれていても、顔色一つ変えず淡々と投げる良介。
「え……もしかしてあんなに淡々と投げてたのって」
「そうだよ。ヤマトがいないゲームなんてつまんないもん。面倒くさいから言われるまま投げるよ」
正捕手の強気の配球にも驚くが、どんな時でも要求される球を良介は迷わず投げる。そして三振でしとめてしまう。
ずっと圭吾の投手の相手をしていたせいもあるが、良介のマウンド度胸とポーカーフェイスに、修二は素直に「こいつはすごい」と、良介の投手としての才能に感心していた。
「だから早くこっち来てほしいって言ってんの」
「俺だって行けるならグラウンド行きたいよ。ベンチでもいいから入りてーよ。でもさ仕方ないじゃん」
しかし自分はまだスタンドでの応援。
当然心の底から頑張れと、声が枯れるほど全力で声援を送るが、良介が活躍する度に自分が捕手としてそこにいないもどかしさとふがいなさでいっぱいになる。
あんなにすごい選手が、自分と組みたがっているのに、なぜ自分はここにいるんだろうと。
どうして期待に答えられないんだろうと。
良介の背中を眺めながら、何度もため息を吐いた。
チームには優秀な選手がたくさんいる。準レギュラーのB組に入っていても、ベンチ入りできない選手もいる。三年生の中にも二軍扱いのC組もいる。同級生にだって悔しいけれど自分より巧い選手は結構いる。
だからこの中で一年の自分が背番号をもらえるわけがない、仕方ないと思い込んでいた。
「仕方なくないよ。ヤマトがちゃんと俺の事見てくれてればすぐだよ! でもずっと心がどっか行ってるしさ。ねぇそんなにカッシーが気になるの?」
良介の言葉が胸に刺さる。
開会式で圭吾の姿を見てから、実際何かにつけ圭吾の事を思い出していた。
圭吾の事ばかり考えて、マウンドで頑張っている良介の事を思いやる気持ちに欠けていた。
良介はこんなにも自分を思ってくれているのに。
女房役になろうとしているのに、自分は今一番大変な投手《良介》のことを第一に考えていなかった。
「……ごめん……」
素直に謝ると、良介は目を伏せ、はーっと小さくため息を吐いた。
「良介……」
「謝るって事は自覚あるんだ」
そしてそう静かに言うと、再び顔を上げた。
「俺より側にいないカッシーが……ソイツがそんなに大事なの?……すげームカつく……」
「ち、違ぇよ!」
咎めるような鋭い視線を向けられ、修二は慌てて否定した。
「そんな事ない! アイツとはその、ちょっと色々あって……絶対負けたくないから、だから気になってただけだ。お前の方がずっと大事だって!」
「……ホント?」
「当たり前だろ!」
訝しむ良介に力強く返事をすると、
「……そっか。なら許す!」
その答えに満足したのか、一転して表情を緩めた。
「じゃあさ、野崎《ここ》に入っただけで修二はカッシーより前に進んでるもん、あとはレギュラーになれれば勝ったも同然じゃん。待ってるから早く来いよな」
そしてバシッと修二の背中を叩くと、上機嫌になった良介は
「部屋帰ろ」
と出口に向かった。
――そっか。俺、圭より先に進んでるんだ……。
「良介」
「ん?」
喜多川は負けたことにより、修二より一足早く新しいチーム体制で動き出す。
それでも野崎が優勝すれば、甲子園に行く事が出来れば先輩達に付いていくだけでも、圭吾より一歩先を歩いていると思える。自信になる。
「お前は明日、ちゃんと頑張れよ」
甲子園への切符を賭けた試合に、そのマウンドに立つ事が許されている良介に、修二がエールを送ると、
「それはヤマト次第。俺の応援に集中してくれれば頑張るよ」
良介はいたずらっぽくそう言って笑った。
「してるじゃん」
「俺、ちゃんとヤマトの声聞いてるんだからな。手ぇ抜いてもわかるんだぞ。あと、必死に声出してるヤマトの顔がすごく面白くてさー」
「その言い草ひどくね? 真剣に応援してるのに」
「あの顔見ると俺安心するんだよね」
そう言われて、良介がマウンドに登る度スタンドにいる修二の方をよく見ていたのを思い出した。
修二と目が合ってから、良介はバッターボックスの相手打者と向き合う。
――それって……。
今まで特に気にしていなかったが、良介の気持ちを知った今、修二はその意味にようやく気がついた。
良介が最初に目にしたいのは、キャッチャーボックスにいる捕手ではなく、修二なのだ。
修二が自分の相棒だという、良介なりの意思表示だったんだ。
「俺はお前の彼女か」
笑って誤魔化したが、良介の気持ちが自分に真っ直ぐ過ぎて、なんだかとても照れくさい気持ちになった。
「彼女じゃなくて俺の女房になってくれよ」
「……今上手いこと言ったとか思ってるだろ? 寒いから」
「えープロポーズっぽくね? そのくらい想ってるんだけど俺。ヤマトの事」
「それはちょっとキモい」
「おまえの方がひでーよ」
頬を膨らませる良介に堪えきれず修二が吹き出し、その後良介も声を出して笑った。
――やっぱりコイツ、すごいヤツだ。
良介と出会って四ヶ月。
「自分を裏切った圭を見返したいから」という理由から良介と組むのが得策だと考えた、その気持ちに変化が生まれた。
圭吾にはまだわだかまりもあるし、簡単には吹っ切れそうもないけれど、それとは別に、純粋に「良介の相棒《ちから》になりたい」という気持ちが生まれた。
圭吾へのすさんだ思いも、良介と話をしていると忘れられる。
良介の笑顔を横目で見ながら、修二は「最高の相棒だ」とその時心の底からそう思った。
その時修二はまだ、良介の本当の姿を知らなかったから――。