そのニュースはすぐに修二の耳に入ってきた。
まだ残暑が厳しい九月。県大会準優勝で夏を終えた野崎は、来年こそ優勝すると新しいチームで始動を始めた。
修二は二軍C組に入った。
一年生のほとんどが雑用や手伝いばかりのD組だったので、C組に入れた事は修二とって十分だった。
二軍とはいえ、一日の練習量はほとんど一軍と変わらない。
逆に早く一軍に上がりたいメンバーばかりなので、自然と力が入る。
そんな一日のハードな練習が終わり、ようやく一息着ける夕食時――修二が膳を持って席に着くと、突然福原が携帯を見ながら鼻息を荒くして「ビックニュース!!」と騒ぎだした。
福原はいつも「誰と誰が付き合ってるらしい」といった、どうでもいい噂話を大騒ぎして話出す。
そういった話題に興味がない修二は、この時もどうせいつものバカ騒ぎだろうと気にせ
ず「いただきます」と小さく呟いて箸を持った。
しかし、
「カッシーがキャッチャーやってるらしい!」
――え?
その言葉に手にした箸を落としそうになった。
――今なんて言った?
福原の方を向き、次の言葉を待つ。
「ホラ! 羽黒ってさ、白山一高行ったじゃん。で今日喜多川と対戦だったんだって。メール見て俺もービックリして!」
羽黒は修二とシニア時代のチームメイトで、福原とは小学校からの仲だった。
野崎への推薦は取れなかったのだが、羽黒は
公立の中でも野球の強い白山一高へ進学した。
その白山一高と秋の新人戦で対戦したのが、圭吾のいる喜多川高校。
その試合で羽黒がブルペンでキャッチャーをやっていた圭吾を見たのだという。
周りにいた同じシニア出身メンバーは口々に「まさか」「そんなバカな」と呟いている。
修二の口からも思わず「信じられない……」と声が漏れた。
「ちゃんとキャッチャー防具着けて、ブルペンで控えとキャッチボールしてたんだって!」
福原が携帯画面を確認しながら、興奮気味に説明する。
背番号は十二。試合には出ていなかったらしいが、防具も着け間違いなくキャッチャーだった、と。
――そんなまさか……こんなに早く?
動悸が激しくなる。
喜多川の層がそんなに厚くない事は知っていた。しかし、それでもこんなに早く、圭吾がキャッチャーとして背番号をもらえるとは思っていなかった。
そんな簡単なポジションじゃない。
――それなのに、どうして……
心の中にもやもやと黒いものが湧き上がる。
「カッシーがキャッチャーやってんの、大和知ってた?」
「えっ?!」
興奮気味に話をしている福原に突然話を振られ、修二は我に返り言葉に詰まったが、
「あ、いや……知らな……かった……」
思わずそう呟いていた。
圭吾はキャッチャーをやるために喜多川に行ったんだと、あの佐和という投手に憧れて、あの人の球を捕りたいって言っていたなんて――ずっと一緒にいた自分の存在を蔑ろにされているような気がして、どうしても言えなかった。
実際、圭吾は修二よりもよく知りもしない投手を選んで喜多川に行ったたのだから。
しかし――。
「俺知ってるよ」
突然、修二の前で味噌汁を啜っていた良介が口を挟んだ。
「え?!」
みんなが一斉に良介の方に振り向く。
修二も驚いて目を丸くして良介を見つめた。
――良介がなんで……?
「カッシーって柏圭吾って人でしょ? なんでも佐和って人の球捕りたいって言って入部してきたんだって聞いたよ」
「えー!! そうなのぉ?!」
良介の言葉に、修二を除いた一同が驚嘆の声をあげた。
「みんながよく噂してるからどんな奴なんだろうと思ってさ。
俺、喜多川に友達いるから聞いたんだ」
にっこりと、いつもの可愛らしい笑みを浮かべながらそう答えると、良介はエビフライを
パクッと口にした。
「じゃぁ、カッシーはその人のキャッチャーになりたくて、一人で喜多川行ったってこと?」
「そうなんじゃない? なんかすごい有名らしいよ。佐和の犬って。とにかくすごく張り付いてるらしいし。おっかしーよね」
――犬……?
福原の問いに対しクスクスと笑いながら答えた良介に、さっきまで盛り上がっていたその場の空気が凍り付いた。
「ごちそーさまー」
良介はそんな空気の変化を感じることない様子でさっさと食事を済ませると、食べ終えた食器を持って席を立った。
「ヤマトもホラ、早く食べちゃいなよ。せっかく今週当番ないんだから部屋でゆっくりしよーよ」
「え? あ、うん……」
呆然と良介を眺めていた修二に、良介は飄々とした態度でそう告げると、
「先行ってるね」
周囲をよそにそう言って食堂を出て行った。
「犬って……カッシーどうしちゃんだろ……」
良介がいなくなると、金縛りが解けたように福原が口を開いた。
「本当かな……? だってあのカッシーだよ? あんなにヘタレだったんだよ?」
「でもキャッチャーやってたのは本当だし……」
そして。
「つーかさ、佐和って誰? なんでそいつ追っかけてカッシーがキャッチャーになってるの?」
「んー聞いたことある気がするけど……誰だっけ?」
「え? 俺知らねーよ」
圭吾から佐和の話題に変わったが、誰も佐和の事を覚えている者はいなかった。
口々に「知らない」と言って首を傾げる。
「俺らの先輩だよ。球も速いけど、すげー落ちるシンカー持ってんだ」
佐和と同じシニアチーム出身のメンバーが、話に割って入る。
「シンカー」というキーワードも聞いても「へーそうなんだー」と言うだけで、誰一人元チームメイトは佐和が何者かを思い出しもしなかった。
速球とシンカーに翻弄され、一本もヒットを打てなかった、あんなに屈辱的な試合だったのに。
「……佐和は中二ん時、ノーノーやられた相手投手だよ」
そう吐き捨てるように言って、修二は良介を追いかけて食堂を後にした。
自分と圭吾の二人だけがあの負け試合に拘っていたのだ。
次対戦した時は、今度こそ絶対あいつの球を打ってやると息を巻いて、必死に練習していた。
シンカーの対策は難しくても、速球には対応できるんじゃないかと暇さえあればバッティングセンターに通った。
しかし、他のメンバーはすぐにそんな負け試合の事は忘れてしまったのだ。
――あんなヤツらに負けたくない!
負け試合に反省も後悔もしない奴らといてもダメだ。
良介から聞いた圭吾の話にショックを受けながら、同時にチームメイトのお気楽さ加減に腹が立った。
圭吾の話からこんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。
三年生が引退し、新チーム体制になった。
夏までは一年は練習の手伝いが中心だったが、秋からチームの一員として一年も能力に応じてABCDとチームを分けられた。
良介を始め、一年で準レギュラーのB組に入ったメンバーも五名ほどいる。
しかし修二と同じシニアチーム出身者は、修二が唯一のC組で、福原ら他のメンバーは全員D組だった。
それなのに、福原達は焦りも悔しがりもしなかった。
手伝い中心で満足な練習も出来ないD組なのに。
圭吾は新チームで背番号をもらった。なのに自分はまだC組。
D組じゃ無かったことに安心してはダメだ――あの中にいちゃダメだ。
圭吾に先を越され焦る気持ちに拍車がかかるが、どうすればいいのかわからず、もやもやを抱えたまま修二は自室に戻った。
「もーヤマト遅いよー。いつまであんな連中と話してんの」
ドアを開けると、ベッドに横になって携帯電話を弄っていた良介が飛び起き、修二を見て頬を膨らませた。
「ねぇ、もうあいつらと一緒にいない方がいいよ。元々ヤマトは福原とかのお気楽組とはやる気が違うんだからさ」
冗談めかした拗ねているような言い方だったが、それはさっきまで修二が考えていた事と同じだった。
「あんな野崎来ただけで満足しているような向上心のない奴らといてもなんの利点もないよ。ヤマトにはさ、俺がいればいいじゃん」
良介も修二と福原達との温度差を感じていたのだ。
「カッシーの情報が欲しいなら、俺が教えてやる。だからもうあいつらと切れよ」
――圭の情報……
良介から圭吾の名前が出てきて、先ほどの良介が言っていた事を思い出した。
――なんかすごい有名らしいよ。佐和の犬って。
「……良介、さっき話、本当なのか?」
「うん。本当だよ。佐和って人のキャッチャーやりたくて」
「それじゃなくて……」
「あぁ、佐和の犬ってやつ? うん、それも本当。佐和って人に結構傍若無人に扱われてるのに、いっつも側にいて懲りないんだってさー。バカなんじゃないかな」
良介はさらりとそう言って、またクスクスと笑いだした。
開会式で見た笑顔。あの投手と圭吾との間に感じた空気。
あれはずっと側にいたから、「犬」とバカにされても側に居続けたからなのか。
自分の元を去っていく時、喜多川に行くと言った圭吾の決意が固かったのは感じていた。何を言って説得しても、絶交と言っても、圭吾は自分の意志を曲げなかった。
――そうまでしてあの人のキャッチャーになりなかったって事なのかよ……
あの時も悔しくて仕方がなかったが、今またその意思の強さを思い知らされて、悔しさがこみ上げてくる。
「カッシーが憧れている佐和ってピッチャー、俺知ってるけど結構クセモノだよ。高校デビューの捕手が相手出来るレベルじゃない。今は単に速球しか注目されてないけど、あいつシニアの時はかなりえぐい球投げてたし」
修二が悔しさで黙っていると良介はベッドにあぐらをかき、まるで面白い話をするかのような表情を浮かべ話を続けた。
「……知ってる。シンカーだろ」
二年前のあの対戦を思い出し、チリッと胸が痛んだ。自分が知っている「シンカー」とは違う、膝元に向かって落ちる魔球。
「ヤマトも知ってるんだ。すごいよね。膝元に向かってぐーんって沈むの。速い球は反射で捕れても、あの魔球はなかなか捕れないよ。まぁ、喜多川にまともなキャッチャーいないのか、高校入ってからほとんど投げてないけどね」
知っている。
だから圭吾は喜多川に行った。
まともな捕手がいないから。
「佐和に本気の球を投げさせたい」と言って。
「だから即席キャッチャーのカッシーは永遠に控えだよ。背番号もらったからって、正捕手にはなれないって。安心しなよ」
わかっている。
言われなくてもわかっている。
そうに決まってる。
あの圭吾が正捕手なんかになれるわけない。
捕手の器じゃない。わかっている。
「速さとスライダーなら俺のが勝ってるし、ヤマトが俺のキャッチャーになれれば、ヤマトの方が上じゃん。カッシーなんて、相手にならないよ」
――でもなんだろう。
良介の笑顔になぜかイラついた。
良介は自分を励ましてくれているのに。
圭吾に負けてないって言ってくれているのに。
「……お前に圭の何がわかるっていうんだよ……」
思わず口をついて出ていた。
「全然知らないよ。俺が知ってるわけないじゃん」
修二の言葉に良介は飄々と言い放ち、ますますイライラが募った。
圭吾の事を何も知らないヤツに、圭吾の覚悟をバカにされたくなかった。
理由はわからない。自分だって圭吾に腹を立てていたのに、良介に圭吾の事をバカにされるのだけは許せなかった。
「圭がどんな思いで喜多川に行ったか知らないくせに、勝手な事言うなっ」
思わず声を荒げるが、良介は一瞬の間を置いて
「そんな事は知らないけどさ。でもカッシーが、ヤマトと一緒にいる事より、佐和って人を取ったんだってことは俺でもわかるよ。俺の大事なヤマトを捨てたヤツを、俺が嫌うのは当然だよね。ヤマトがずっとそいつに拘って、忘れられない存在なら尚更」
相変わらずあっけらかんとした態度でそう言った。
「っ!」
その良介の言葉が胸に刺さり、修二は返す言葉を失った。
――捨てられたわけじゃない……っ
それは一番言われたくない台詞。自分でも認めたくなくて考えるのを避けていた台詞。
「お、お前だってシニアで組んでた捕手を……捨てて……来たクセに」
ギュッと拳を強く握り、震えそうになる声を必死に堪えて、
言い返す。
初めて話しをした時、良介は野崎に来た理由を「他の奴と組みたいから」と言った。
相手捕手に同じ事をした良介に、圭吾の事をとやかく言う資格はないと修二は思った。
しかし良介は一瞬きょとんとした顔をしたかと思ったら、あははと笑い出した。
「あーそれ違う、違う」
「だ、だってお前、別のヤツと組みたくてここ選んだって言ったじゃねーか! お前だって圭と同じなんだろ?! お前だってどうせ使えないと思ったら簡単に俺を裏切るんだ」
「何言ってんの? 逆逆。向こうが俺と組みたくないって言ったんだよ。だから同じチームじゃやりづらいと思って学校変えたんだよ」
「――え?」
――捕手から組みたくないって言われた?
予想外な事実に返す言葉を忘れ、居たたまれない気分の修二に良介はにこっと微笑を零すと、ベッドから降り修二と向き合った。
「俺とヤマトは一緒なの。同じ相棒に捨てられた同士」
修二とほとんど同じ背の良介は、修二を正面に見据えた。
「良、介……?」
その視線が、雰囲気が、いつものふにゃっとした柔らかい良介のそれとは全く違っていた。
「だから俺は絶対裏切らない。俺の相棒はヤマトだけだし、ヤマトの相棒も俺だけ。だから俺だけを見てよ」
じっと修二の目だけを見つめるその強い視線に、修二の背筋が一瞬ゾクッと寒くなった。
こんな良介の表情《かお》は初めてだった。
「……っ」
しかし修二がその視線に捕らわれ思わず息をのんだ瞬間、良介はふっと口元を緩め、それから白い歯を零した。
「大丈夫。ヤマトは俺が見込んだんだからA組入りもすぐだって!」
そう言って良介はバシッと背中を叩き、再びベッドに横になった。
「早くヤマトと試合出たいなぁ。ヤマト頑張れよ!」
何事もなかったかのように寛ぐ良介と対照的に、良介の強い視線とその言葉に台詞に捕らわれてしまった修二は、そのままじっとベッドの上の良介を見つめた。
良介がなぜ自分を選んだのかはわかった。
絶対裏切らないという確信も得た。
同じ痛みを知ってる良介なら、信じられる。
最高のバッテリーになれる。
しかし、どうしても何か心に引っかかる。
――向こうが俺と組みたくないって言ったんだよ。
どうして良介とのコンビを解消したかったのか。
圭吾は気になる投手を見つけ、そっちを選んだ。
良介の理由はなんなのだろう。
ちょっと強引な所もあるが、なんとなく許せてしまう。その性格で一年の中でも特に先輩に好かれている半年一緒に生活していても、気になるほど嫌なところは見当たらない。
それとも、まだ自分の知らない良介がいるのだろうか。
「何? 何見つめてんだよ〜。照れるじゃん」
良介がえへへーと照れ臭そうに笑う。
この人懐っこそうな笑顔に、裏があるとは思えないが。
「……なぁ……お前とさ、そのキャッチャーの間に……何があったんだ……?」
今じゃないと聞き出すタイミングを永遠に失いそうで、修二は思いきって疑問を口にした。
「え? 俺らが別れた理由って事?」
修二の言葉に、良介がきょとんとして見つめ返した。
「あ……うん」
その声のトーンからは、それほど重い話題ではないと感じ、修二はホッ胸を撫で下ろした。
「重いって言われたんだ」
「重い?」
「前にも言ったけど、俺好きな人には尽くすタイプなんだよね。それが重荷だったんだって」
良介の答えに修二は眉を顰め首をかしげた。
確かに良介は世話好きなところがある。最初は戸惑ったが悪い気はしないし、今ではよく気が付く良介に頼っている時もある。
修二にとっては悪い所とは思えないが、それが相手にとっては「重荷だった」という事なのだろうか。
単に認識の違いなのだろうか。
「でもさ、何度言っても向こうは俺以外のヤツにも目を向けるから。俺も必死になって出来る限り尽くしたんだよ……で、結果重いって言われた」
しかし、良介の話を聞いていると、それだけの意味ではないような気もする。
「だからヤマトが案外嫉妬深いタイプだってわかって良かったよ」
「え? 俺?」
突然話を自分に振られ、驚いた拍子になんとなく感じていた違和感がパッと消えてしまった。
「うん。俺、ヤマトと絶対相性いいと思うんだ。ヤマトに会えたの、本当に運命だって思ってるよ」
そしてにこやかに、嬉しそうにそう言う良介に、
「な……なんか照れるよ……でも、うん。俺もだよ。お前に会えてよかったって思ってる」
修二はつられて笑った。
良介は自分にとって選手としてとても刺激になる存在であり、また今一番分かり合える友達でもある。修二も最高の相棒に出会えたと思っていたから、この出会いが運命とまで言われて、本当に嬉しかった。
修二が良介の言っていた言葉の真意――前の投手と別れた本当の理由、なんとなく感じていた違和感の正体――がわかったのは、それから数ヵ月後、夏より苦しいと言われる冬練が始まる頃だった。