翌日。
「あ、いたいた」
父兄応援席で誰かと話をしている母親の姿を見つけると、豊は背後からゆっくりと近づいた。
「かーあさん♪」
その声に母はハッとして話を止めると、
「豊?! あなたなんでここ……学校はどうしたの?」
振り返り、目を丸くしながら母は予想通りの台詞を吐いた。
「行ったよ。でも兄貴の応援行くって言って午前中で早引きしてきた」
にっこり笑ってそう言うと、今度はぽかんと口を開けはぁ〜と呆れるようなため息を吐いた。
「あなたねぇ〜……」
父親が警察官という事もあり、幼い頃から柏家の兄弟は厳しく躾られていた。
兄弟喧嘩は派手だったが、外では問題を起こしたことはない。学校をサボってしまいたいと思う日も何度かあったが、仮病は使ってもサボる事はなかった。
万が一補導されたら大変な事になってしまうことが、なんとなくわかっていたから。
だから高校に進学し、つまらない授業を抜け出して遊びに行こうぜという悪友の誘いも、のらりくらりと交わしてきた。
しかし、今日はじっと学校で結果を待っている事が出来なかったのだ。
「だって兄貴もそうだけど友達もいるからさー。どうしても応援したくて、我慢できなかった。父さんの代わりに仕事するから、ねぇいいでしょ」
兄の応援なんて口実で、本当は光の応援。光が投げる姿を見てみたかった。
絶対的なエースがいるので、光が登板する機会があるかどうかはわからないが、試合展開によっては登板もありうる。
それに優秀な選手だという悠馬は確実に出る。
正捕手の証、背番号2番は圭吾がもらっていたけれど、話によるとまだ圭吾は控え扱いらしく正捕手は悠馬という事になっているらしい。
だから今日が自分の大事な友達のデビュー戦なのだ。
じっとしてられる訳がない。
「お願い。母さん」
母親の承諾があればサボリにはならない。
しかし事前に応援に参加したいとお願いをしたところで、堅い考えを持つ母が簡単に了承してくれるとは限らない。
だから強行手段に出たのだ。
素直に事情を言うと、案外担任はすんなり許可してくれた。
父親の職業と、普段の行いがいいおかげかもしれない。
「でもねぇ」
「兄貴の応援って言って早退してきたから、帰れって言われると嘘ついてサボったってことになっちゃうんだけど」
そう言うと、母は観念したように首を縦に振った。
「もう……仕方ないわねぇ」
「やった!」
作戦成功と思わずガッツポーズをしてしまった。
「圭吾君のお兄さん? 兄弟仲いいのねー」
すると、母の背後でさっきまで母と話していた女の人がクスクスと笑い出した。
「あ、いえ、弟なんですよー。体は大きいけどまだ高校一年で」
再び豊に背を向け、その女の人に笑いながら説明する。
――はぁ〜、かわいらしいお母さんだなー。
母の背後からその女の人を見て、豊は思わずため息を吐いた。
父兄席で周囲と同じTシャツに帽子を被っているという事は、誰かの母親に違いない。
しかし、豊が知る「母親像」とかけ離れた可愛らしい人だった。
その人は周囲の人たちよりもよりも背が低かったから余計に可愛いく見えるのかもしれないけれど、それを差し引いてもその容姿はとても高校生の子供を持つ母親には見えず、若々しい。
誰のお母さんなんだろうな〜、可愛いお母さんでいいな〜〜と眺めていると、
「あら。じゃぁ豊君?」
突然名前を当てられ、目を丸くして見つめられた。
「へ? あ、はい……」
兄・圭吾の学校に行ったのはたった1回。
たったそれだけでそんなに有名になったのかと驚いていると、
「豊、ちゃんとご挨拶なさい。佐和君のお母さんよ」
「えっ??」
突然母に小突かれ、思わず目の前の女の人を凝視してしまった。
「司から聞いてるわ。お菓子作りが得意なんですってね」
そう言って笑った顔にピンと来た。
そう言われると似てる! そっくりじゃん!
「か、柏豊です! 兄がいつもお世話になっております!!」
慌てて背筋を伸ばし、そして頭を下げた。
「あっちにいるのが佐和君のお父さん。お父さんイケメンでしょー」
「えっ!」
続いてちょっと離れた場所にいる佐和の父親を、母がなぜか得意げに紹介した。
台車に乗ったクーラーボックスを下ろしている男の人――佐和の父親は浅黒い肌にキリッとした目元の男前だった。
――佐和さんちってすげー……。そりゃーあんな可愛い人が生まれるわけだよ。
「佐和さんのところは毎回ご夫婦で応援に来てくれるの」
母と話を続けている可愛らしい佐和の母親を羨ましく眺めていると、
「あの……今柏君の弟さんって聞こえたんだけど」
今度は背後から声をかけられた。
「え?」
振り向くと、二人の女性が少し戸惑いがちに立っていた。
――わ、また可愛い人……とすげー美人。
話しかけた方は丸顔で女子大生かと思うほどの童顔の女性。その隣にいるのは対照的なキリッとした知的な美人。
どちらも周りと同じ父兄用Tシャツと帽子を着用しているので、誰かの母親なのだろう。
「もしかして豊君?」
今度は誰のお母さんだろうと、その顔から想像するが思いつかない。
「あ、はい。そうですけど……えっと……」
しかしやはり自分の名前を知っている。誰だろうと考えながら豊が頷くと、丸顔の女性の方がぱぁっと笑顔になった。
その瞬間ハッとして気づいた。
――この笑顔。知ってる。もしかして……
「あぁよかった。光の母です〜。初めまして。いつも光がお世話になっているみたいで」
――やっぱり!
その笑顔と、纏っている柔らかい雰囲気は光にそっくりだった。
「は、初めまして!」
思わず背筋を伸ばし、きっちり45度の角度でお辞儀をした。
「光から話を聞いてて、お会いしたいと思っていたの」
そう嬉しそうに言う言葉に、豊のテンションが一気にあがった。
――え、えー!!光君、家で俺の話してんのぉーーー!?
光が家族に自分の事を楽しそうに話ている様子を想像して、顔が熱くなった。
何をどんな風に、どんな顔で話をしているんだろう――想像するだけで、どうしようもなく興奮する。
「先輩の圭吾君にもよくしてもらってるうえに、弟の豊君ともお友達だなんて、光に聞いて驚いわー。ね、みっちゃん」
光の母が、隣にいた美人の女性に話しかけると、
「えぇ。お会いできてよかったわ。初めまして、綾瀬悠馬の母です」
「――――え?」
にっこりと微笑むその笑顔に、一瞬見とれた。
豊が会った女性の中で圧倒的に綺麗で、まるで芸能人を目の前にしているようなオーラがあった。
――悠馬のお母さん……
花のような柔らかい印象の光の母とは対照的に少し冷たく感じる悠馬の母は、悠馬と初めて会ったときと同じ印象だった。
よくわからないけれどなんだかとても緊張する。
「は、初めまして」
光の母とは違う意味でドキドキしながら、豊はぎこちなく頭を下げた。
「豊君の話、よく悠馬から聞いていて、どんな子なんだろうって思っていたの。お菓子、いつもありがとう。今日はこんなお菓子もらったんだとか、すごく美味しかったってあの子いつも自慢しているのよ」
「……え?」
そんな中悠馬の母からそんな意外な話をされ、豊は光が自分の事を家族に話をしている事を聞いた時以上にひどく驚いた。
おそらく今、目はまん丸になっているに違いない。
――自慢してる? 美味しかったって? 俺の話をよく聞いてるって……え? な、何を???
全く想像が出来ない。
光と一緒にいるからついでに悠馬にも持ってきたお菓子をあげているが、今まで感想なんてもらったことはない。
一度だけシュークリームをあげた時、翌日「旨かった」と言ってもらえたが、それ一回だけだ。
お菓子を渡す時だって、一応「ありがとう」とは言ってくれるが、「ついでにあげている」俺に対して、悠馬も「ついでももらってやる」的な空気間だった。
そもそも挨拶以外の会話すらあまり交わしたことがないのに、家族に何の話しをするんだろう。
――……いったいどういう事なの?
「光もよー。豊君のお菓子は絶品だって」
「あ、ありがとうございます」
「今度うちの方にも遊びに来てちょうだいね」
そう言うと二人は一年生の親で固まっている席に戻っていった。
「豊、今の馬橋さんと綾瀬さんでしょ? あなた野球部に友達多いのねぇ〜。お友達って佐和君だけかと思ってた」
二人が去ると、母親が驚いた顔をしていた。
喜多川高は地元だが、今話しかけてきたのはいづれも地元の友達の親ではない。
しかもそのうちの一人は世間でも有名な超高校生選手。喜多川高校のスーパールーキーだ。
「しかもあの綾瀬君と友達だったなんて。お母さん驚いちゃったわよ」
「あ、うん。……まぁね」
にっこりと笑顔で対応したつもりだけれど、きっと引きつっていたと思う。
――友達……と言っていいんだよな。きっと。
悠馬と知り合って半年経つが、二人の距離は縮まる気配を感じていなかった。
それどころか、嫌われているのかと思っていたくらいだ。
しかしどういうわけか知らないうちにどうやら一応、悠馬から「友達」の認定はもらえていたらしい。
光は悠馬は人見知りと言っていた。
人見知りとはそういうものなのだろうか?
無愛想なだけで、あげたお菓子も、俺と会うことも実は喜んでくれているのだろうか?
「なんだよそれ、んなのわかんねぇよ……」
「ホラ豊! ぼーっとしてないで、男手少ないんだから、佐和君のお父さん達と一緒に力仕事手伝いなさい!」
悠馬の事を色々考え唸っていると、突然母親に背中を叩かれ思考は強制的に中断された。
「あ、はーい!」
とりあえず、今悠馬の事は置いておいて光と喜多川高校を全力で応援しよう。
豊は男親でまとまっている席へ駆け足で向かった。
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